昭和49年12月14日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
人間万物の霊長であるという、自覚に立たなければいけない。でないと万物を見ても、道理が道理と分からない。万物の霊長としての自覚。そして万物の霊長としての値打ちを作ろうと言う様な所から、精進と言う事になってくるのです。万物の霊長として値打ちを作る。そこから万物を見一切が教えと言う様に見えてくる。自然の働きそのものが、神様の働きであると言う様な、愈々本当な事が本当な事として分かるようになる。だから本当の生き方が、出来る様にもなる。
道理に合う信心と言う事は、道理にあう生き方をさせてもらう。世の中には色々信心と称するものがありますけれども、道理に合わない事が沢山あるようです。道理を信じず道理ではない不道理な事を信、またはそれを教えると言った様な宗教すらがあるぐらい。教祖様その辺の所、実に見事に頂いておられるようですね。例えば日柄方位とか、様々な迷信な事がございます。それを万物の霊長であるという人間がそれを信ずる。これなんかは万物の霊長として、値打ちのない生き方です。
広い世間を自分で狭くしてしまうのですから。勿論そう言う事が御道では、神様への御無礼とまで言われる訳です。私はこの万物を見て道理に合う信心と言う事を、これはどんなに程度の低い頂き方によってででも分かるし、また高度な頂き方によっても分かると思います。私は昨夜お夢を頂いた。というのはお芝居ででも、あんなのは見た事はないけれども。あの化け猫騒動というのがあります。猫が化けて大きくなっておる訳です、そして目はギラギラと電気が使ってあるらしいんですよ。
光青い中にギラギラ光よるわけですね。そして化け猫がですね、何か一間ぐらいある所をバーとこう、飛んで見せる演技らしいです。だから凄まじい勢いで飛ばなければ、一間もある所だから、飛べないわけです。でも飛ぼうという化け猫が姿勢をとっておる所へです。私の孫がゴソゴソ這いながら、自分も猫の真似をしてニャオニャオち言うてから、化け猫に近づいていく所を頂いた。だからその化け猫が飛ぼうと思ったけれども、邪魔が入ったもんですから飛べないと言う様な情景の所でした。
私は家内にその事を、今こげなこつを頂いたが、どげなこつじゃろかち言うちから分からなかった。どう言う事やったじゃろうかと思うて、どう言う事でしょうかねて家内は言うんです。大きな化け猫に向かってから、向こうも猫の真似するけん、こっちも猫の真似してからニャオニャオち言うちから、こう四つ這いになってからその猫に向かって行く所。だから猫が凄まじい勢いで飛ぼうとする時に、ゴソゴソと出て行ったもんだから、飛べないでおるという情景でした。
私は今日は人間は万物の霊長だから、万物を見て道理に合う信心と言う事を頂いて、ははぁこう言う事であったなと思わせて頂いた。それはお芝居なんかで見ると、それは凄まじく怖いものなのです。けれども実際は怖いものではないのです。怖く見えておるだけ。だから大人は怖がるけれども、返って無心の者まぁだ怖いも、怖くないも分からない者。まぁ申しますね、メクラ蛇に怖じずと言った様な事を申します。蛇は怖いものそれを見えなかったら怖くない。
そんなら蛇は怖いものかというて、怖いものじゃない実は。怖くもないものを私共が心があるから怖いと感ずる。私共が無心になると怖いものは、怖いものじゃなくなってくるのです。こういう素晴らしい道理があります。例えば病気をいたします。まぁ風邪は万病の元というから用心しなければ。もうそこにはですその風邪を風邪と認めておる。私それこそ恥ずかしながら、二年ぶりで風邪を引いた。
十日余り咳が出るんです。所がね本当いうたら咳は出らんでもいいのですけれども、何処にか観念に風邪を引いたという、それがあるから咳が出るんです。その証拠に眠っておる時には出らんでしょうが。目が覚めた途端に咳が出るもんです。ですから無心であると言う事。だからこれは大変に難しい。いうなら最高の道理と言う事でしょう。けれども信心させて頂く者はです、段々本当な事が本当のこととして分かってくる。
世の中に様々な難儀な問題とか、難儀な事柄とか色々ありますけれども、それは決して難儀な事ではないと分かってくる。みんな神様の氏子可愛いという、御心の現れだと言う事が分かってくる。是は難儀の全てがそうです。私共は過去においてそれこそ様々な難儀をして来ましたけれども。それはみんな私に神様が力を下さろうとする働きであったのですから、それは難儀な事ではなくて、むしろ神愛ですからお礼を申し上げなければならない事に、お礼を申し上げれていないと言う事はです間違いです。
だから私はおかげを頂いてから、今度の風邪は全然頭痛もしなければ、いうならば熱発もしない。ただ私の観念の中に風邪を引いたという、その観念が咳にだから御用に差し支える事はないけれども咳が出る。是はまだ私の、理を追求する所がまだまだ、追求しなければならない。本当にもっと自分のものにしなければならない、眠っておる時と同じいうなら死んでおる者が熱があるはずがない。死んでおる者が咳が出る筈はない。いわゆる無心の状態になった時に、すでに病気もないという程しの事なのです。
それを自分はあれを食べたから胃が悪い、こうしたから風邪を引いたと言った様に、風邪にしてしまうのです。だから私は風邪を風邪と認めないために、この頃ずっとお風呂も頂き続けました。それかと言うて熱があったり気分が悪くてゾコゾコして、入るごとないとに入れというのじゃないですよ。私の糖尿病なんかがやっぱそうでしょうが。私は糖尿病として認めていないもん。神様の御都合だと思うておる。だから医者は安静にしとかにゃいかんというけれども安静もしない。
甘い物は食べちゃいかんと言うけれども、牡丹餅も食べる。辛い物はいかんと言われても酒も飲めば焼酎もビールも飲むと言う事。私はそれを認めていないからです。けれども観念のどこかに、糖尿病というものがそうして認めてないけれどもある。それが私が沢山お水を頂くと言った様な事やらは、まだまだその糖尿病じゃないという思いが、どこにか残っておるわけです。けれどもこう言う事に取り組んでまいりますとです。本当に信心が楽しゅうなってくるです。
これはまだ自分の信心が足らんのだ。いうなら信が足りんのだと。万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰るがです。今申しますように、子供が怖くないものが、大人が怖いというはずがじゃない、そこで私達は信心によって、子供にならなければならないと言う事なんだ心が子供に。童心にならなければならないと言う事。成長すると言う事は、そう言う事なんです。
子供が怖くないものがです大人が怖い。怖くもないものを怖いと思う事は、すでに迷いなんです。怖いと観念しておるから怖い。信心させて頂く者の上には、決して怖い事もなからなければ困ったと言った様な事も、あってよかろう筈はない。困ったと思うておった事は、神様が愈々力をつけて下さろうとする働きであった。怖いと思うておった事は、神様が愈々度胸を作って下さろうする、お計らいであったと。おかげを頂いてみて分かるのです。ですからこれから起きて来る。
怖いと思う事でも困ったとか、難儀と感ずるような事でも、これは困った事ではないのだ、難儀な事ではないのだ、寧ろ神愛だから合掌して受けていこうと言う事が、スキッと分かった時にです、生まれるのが安心立命なのです。人はさぁどうしようか、目の前が真っ黒なる様な事が起こったと言うて、テオザオしておる時でもです、落ち着き払っておれる。いやぁこの向こうに、神様はどういう働き、どういう力を下さろうとしておるのだろうかと、むしろ楽しみになるくらいです本当に。
この辺の所が今日は私は、万物の霊長してのです、これは最高の所万物を見て道理に合う。困った事もなからなければ難儀な事もない、という世界に住まわせて頂く程しの私は素晴らしい御教えであると思います。だからやっぱ精進せにゃいけません。私が風邪を引くいておるけれども、風邪と私が認めてない。だから風邪をひいて風呂入ってはぞこっとすると、またなお酷うなると言った様な事を、観念の中から取り去ろうとする努力が、風邪をひいとってもお風呂を頂く。
糖尿病であっても甘いものもあえて頂く。辛い物も飲むと言う事になってです。先生の体は違う本当に先生の体は違うと皆が言われるんですよ。違う事じゃないそういう稽古をしておるからです。私は絶対お医者さんが言われるのは、血圧が高こうなからなきゃならない状態だそうです大体は。所が実際に計ってみると、高くもなければ低くもない。こりゃ不思議と言って医者がたまがるです。心の状態で血圧は高くもなからねば低くもない。ちょうど今の年齢にとって丁度良い所のおかげ。
それをそこん所が分からないから、血圧がちょっと高こうなったり、低くなったりしてテオザオするわけです。私は今日は万物を見て道理に合う信心と言う事を、私が現在頂いておる高度な所を、今日は聞いて頂いた。だからそれに取り組んで道理に合う信心をさせて貰うためにはです、そうしなければいけない。お薬なんかでもそうです。お薬なんかでも、これは必ず毒になるものです。ですからその毒をです、変じて薬にするだけの力が出来たら、薬もまた素晴らしいです。毒薬。
それは返って人の命を助ける働きも、持っておると言う事です。だからそれを変じて薬にするほどしの力が出来た時に、教祖様が祈れくすれと仰せられる。くすれ祈りにするから、おかげにならんと言う事はです、ギリギリの所を言うとです。祈れくすれと言う事はです、その毒を例えば毒薬であっても、それを薬に変じさせるだけの信念というか、力を持った時に初めて薬としての、くすれる所の働きが生まれて来るんです。
そこには毒である薬も、神様のお恵みのもの、お下がりのものとして有難く頂く心が生まれてくるのです。そこん所を頂かずにです、薬も神様が作って下さったもんだからと言うて、お供えしてから頂きよりますと、こう言う人があるけれども。結局その薬が効くとです、はぁあの薬が効いたと言うて、神様のおかげというものを疎かにするのです。だから、神様のおかげを疎かに思う様な薬の頂き方は、これはどこにか毒になっていくです。そう言う事ではいけん。
例えばそれが毒薬であっても薬に出来れるだけ。毒薬変じて薬にするだけの力を頂いていく時に薬は薬としての、本当の効果があるのであり。そして病気なら病気が治ったという時でもです。いうなら全面的に神様のおかげで助かったとい事になる。有難さというものは、矢張り薬によって弱められると言う事がない。そこん所の力も無しに薬を頂くとです。神様のおかげがおかげ頂きましたと言いよるばってん、ほんなちょこっとばっかり、神様のおかげと言うてですね。
大体薬の方にばっかり、お金を払おうとする事になるです。薬が百円するなら神様には二百円ぐらいお供えせじゃこて。例えば理屈がですよ。そりゃ本当の事が分かれば、そう出来なければおられんのです。神様のおかげと分かったら。分からん所にそう言う事になってくる。これはまぁ道理です。だから道理に合う信心と言う所を、今日は大変難しく難しい道理。赤ちゃんはどんな怖いものを見せても怖いと思わない。
それがちぃっと物心がつくようになると、怖くないものでも怖がる。赤ちゃんは無心だからです。そこで私共は歳をとって、段々色んなことが分かってです、怖くないものが反対に怖くなってくる。そこで信心とはです結局、赤ちゃんが全然怖さを感じないように、そういう赤ちゃんになる稽古です信心とは。それをある場合には、我情我欲を離れると言う事も申します。本心の玉を磨いていくと言う事も言われます。日々の改まりが大事と言う事も言われます。
昨日は十三日会である方が、この頃私の方の大黒様毎日表情が変わられると言うのです。私はそれを頂いた時に「いやぁあんた、本当の拝み方が出来よるな」と申しました事でした。大黒様がいつもニコニコしてござるごたる事では、ほんなもんじゃないです、それは死んだ大黒様です。大黒様とても、生きてござる大黒様として頂いたら。いつも同じ表情してござる筈はないです。
これは私が毎日体験する事ですけれども、私の控えに三代金光様のお写真がお祭りしてあります。毎朝天地を遥拝したら、金光様にご挨拶を申し上げるんですけども。申し上げるたんびに表情が違われると言う事です。こちらの方へ心が引掛りよる時には、それこそ渋い、嫌な顔をなさっておるように感ずるです。かと思うと今日は事の他ご機嫌でありなさるなと言う様に、にこやかに感ずる時があります。
皆さんも体験してごらんなさい。沢山大黒様が出られておられるから、大黒様がいつもニコニコしてござるというふうに見えるならば、まぁだほんな大黒様ば拝みよるとじゃないです。生きた大黒様ば拝んだら、表情が度々変わらなきゃ嘘です。これなんかも自分の心の反映ですから、見るもの聞くものが。だから道理です迷信じゃないです。そこに私は、生きた福神奉斎の意義があると思います。
昨夜私が頂いたお夢の中から、どう言う事か分からなかったけれども。今日は万物の霊長だから万物を見て、道理に合う信心をせよとこう言う。愈々最高の道理が分かって来る様になりますとです。いうならば無の状態になってくるです。いうならば赤ちゃんと同じような心の状態になってくるです。我情もなければ我欲もないと言った様な。そこに我が身は神徳の中に、浸っておるような実感というものも生まれてまいります。だからここん所を今日の御理解を、高度な意味に於いての道理と言う事を、分かりやすくして下さるために、昨夜の夢を頂いておったんだなぁと、今日は思わせて頂きました。
だからそう言う事は、どうでもよいというのじゃなくて、本当にそれに取り組んで稽古をすると言う事です。私が風邪を引いておっても、お風呂に入らせてもらうように。風邪はない。風邪と自分が思うておるから、熱が出たり頭痛がしたり、咳が出たりするんだと。そう分かっておるけれども、どこかの観念の中に風邪をひいたというものがあるから咳が出るんだと。本当は出らないはずだと。その証拠には寝むっておる間は、咳は出ないじゃないか、だから風邪じゃない。
神様のご都合だと頂いて、お風呂にも入る。そこには風邪として認めてない。だから私の場合は、熱も出なければ、寒気もしない。まだ、かすかに残っておる、それが咳になって、時々現れておる。はぁここにまだ自分が風邪はない。実を言うたらば、神様の本当の愛情の表れであると頂ききれてない所に、少しばかりの咳があるんだという風に、私は頂いて稽古をさせてもらう。私がお酒を頂くのも、牡丹餅を頂くのも糖尿病じゃない、神様のご都合だと、頂こうとする精進なのです。
そこから親先生の体は人と違うと言われる様なおかげも頂いておる訳であります。どうでしょうか。皆さん本気でねそう言う所に、怖くもないものを怖いと思うたり、困った事でもないものを、困ったと感ずる時には、まぁだまぁだ道理に合う信心というものが、本当に出来てない時です。人は困ったと言いよるけれどもこちらは有難い。人は怖いと思いよるけれども一つも怖くない。そういう心の状態が開けた時に、私は信心させて頂かなければ頂けない、安心のおかげを頂いておる時だという風に思います。
どうぞ。